澤井真一郎のプロフィール

さわしん
さわしん
どーもはじめまして、この度はぼくのプロフィールに興味をもってくれてありがとう。

得意なことは、インターネットを使ってお客さんをあつめることです。

どれだけ自信がある商品、サービスもまずはお客さんに知ってもらうことができなければ、宝のもちぐされです。

まぁ、かたっくるしいビジネスのお話は横においといて、ぼく澤井が

子供のころ、借金とりの怖いおじさんに脅されたこと
家がなくなって荷物がみかん箱だけになってしまったこと
ビジネスの失敗で自己破産してしまったこと

など、オモローな生い立ちをカミングアウトしてるので、少しながいけど最後まで読んでくれたらうれしいです。

では、どーぞ

【文字を読むのがめんどうだ!というあなたは動画をご覧ください。】

1971年、くだもの屋を営む夫婦のもとに第一子として生まれる

小さい頃から、「しんちゃん」と呼ばれ父親のお店の若い衆や商店街の他のお店の人たちにかわいがられながらスクスクと育つ。

まったく記憶にありませんが、石ころを高くつみあげる、というひとり遊びが好きだったみたいです。

近所の商売人の子供たちと毎日遊んでいて、足でキコキコとこいですすむ自動車型ののり物(ペダルカー)がお気に入りでした。知らない道を探検するのが好きだったらしく、よく迷子になり何回もパトカーのお世話になりました。

当時、父親のシゴトが順調で昭和40年代にはやっていた超合金やスーパーカーなど、最新のおもちゃが販売されると「しんちゃん専用」といってお取りおきしてくれててすべてのおもちゃを買い与えらえれていたそうです。

自転車も、当時はやっていたアニメキャラのもの、チョッパータイプのもの、BMXタイプのもの、など数台もっていたらしいです。

(小さかったので優越感にひたったわけでもなく、ほとんど記憶にありません)

幼稚園時代

4歳の時に、尼崎市内にあるからたち幼稚園に入園し、パンダさんのバスで通園していました。

小さいころから、体が大きかったのでいつも後ろから3番目以内でした。が、みてくれとちがって、気が弱くてひっこみじあん。

それに「怒られること」に対してめちゃくちゃ恐怖を感じていたので、人の顔色ばかりうかがう子供でした。とくにお母さんが怖かったです。

そんなこんなで、幼稚園ライフを楽しんでいましたが、親のシゴトの都合で引っこしすることになり、伊丹市にあるふたば幼稚園に転園しました。

キリシタンでもないのになぜかキリスト系の幼稚園に入園。「天にまします我らの父を」という呪文のようなものを唱えてから、お昼ごはんを食べていた記憶があります。

小学校時代

小学校は尼崎市内にある塚口小学校に入学しました。入学式のあと、机の前においてあるお道具箱をみて、「はやく勉強したいなぁ」とワクワクした気分になったことや、1年5組で担任は赤松メガネ先生(赤いメガネをかけていた)だったこと、は今でも覚えています。

相変わらずのひっこみじあんで、極度のはずかしがりやだったので、本読みを当てられるのが一番イヤでした。だから、国語の時間は当てられたらどうしよう?と心配していつもドキドキしていました。

で、あたったら最後、蚊の鳴くようなちいさい声で、ボソボソとしか読めませんでした。1年生ながらも、情けない自分がイヤで醜態をさらした自分自身にムカついていました。

小学校2年生の時のとある土曜の午後、お母さんの自転車の後ろに乗って学校の前をとおると、上は黄色、パンツはブルーの格好いいユニフォームを着たお兄ちゃんたちがサッカーをしていました。

そして、お母さんに「あれ格好いいわ!」というと「じゃあ、やってみる?」ということで、その場で体験スクールに申し込むことに。

今、思うと、たぶんですが、サッカーをすることでひっこみじあんな性格がマシになる、とお母さんなりに配慮してくれたのでしょう。

インサイドキックにインステップキック、リフティングなど、基礎練習をまじめにやって、その日から土日はサッカーづけの生活がはじまりました。

が、文武両道の生活をしていたので、自分でいうのもどーかと思いますが、当時のあだ名は「100点太郎」でした。だから、学校に行くと毎朝、「澤井君、宿題みして」と言われていました。

また、当時から作文が得意で、ぼくとおなじ成績上位の須田くん、というお友達と今月はどっちの作文が優秀賞にえらばれて学級新聞にのるのか?なんてことを競っていました。

このような小学校ライフを楽しんでいましたが、4年生の冬にまたまた親のシゴトの都合で転校することに。大阪市の大正区にある平尾小学校にかようことになります。

そこでもサッカーチームに入ろうと思ったんですが、その地域は野球はさかんですが、サッカーチームはバスに乗って遠くまで行かないとありませんでした。

だから、どうしようかと悩んでいましたが、「男は、野球じゃ!」という固定観念と先入観の塊みたいな父親になかば強引に野球チームに入団させられました。

まぁ、それもこれもひっこみじあんなぼくの性格を改善させるための父親なりの愛情だったのかな?と今では思っています。

けど、転校するさい、じつは自分なりにがんばったんです。何をがんばったのか?というとひっこみじあんの性格を克服すること、です。

小学校4年生なりに自分の性格にコンプレックスを感じていたので、転校を機に自分自身を変身させよう!と決めていました。で、変身するためのチャンスはたった一度。

転校初日に新しいクラスでする自己紹介です。だから、あいさつ文の下書きを書いてこっそりと何回もリハーサルをしました。

そのおかげで、大きな声でハキハキと自己紹介すること、に成功。^^

この経験で、自分自身で自分を変えることができるんだ、ということを学びました。

その日から、たくさんのお友達ができました。また、めちゃくちゃ野球がさかんだった(人数が多すぎて、小学校内で2チームに分かれた)ので、月曜日から日曜日まで野球づけの生活がはじまりました。

クリスマスが大っ嫌いになった日

そんなこんなで、楽しく小学校ライフを満喫していたんですが、小学校5年生のクリスマスの夜にとある事件が起こります。

その日は、クリスマスということで、5つ下の弟と、お母さん、ぼくとの3人でおいしい料理を食べて幸せな気分で眠りについたんです。が、夜中に夫婦ケンカがはじまりました。

まぁ、小さい頃からちょくちょくあったのですが、両親のケンカはやばかった。まず、食器という食器は全部こなごなに割れてしまいます。あと、コタツの足が4本とも折れてしまったり、ブラウン管テレビに金属バットがぶっささったり。

と、とにかく激しかったです。だから、いつも布団の中にもぐり込んで泣きながらぎゅーっと手をにぎって、「神様、いい子にするからお父さんとお母さんのケンカを止めて下さい」と神様にお願いをしていました。

が、その夜、お母さんは家をでて行ってしまい、離婚することになりました。

そして、そのまま母親とは会うことなく、父とぼく、5歳年下の弟との三人の生活がはじまりました。

ここから、壮絶な人生の幕開けです。笑

小学校5年生のお母さん

当時、父親はまだくだもの屋を営んでいましたが、離婚の影響でかなり荒れていました。といっても、虐待をされるのではなく、毎晩、現実逃避するために飲み歩いていたのです。

だから、夜は家にいません。夜ごはんはどうしてたのか?というと、父親が焼きそばUFOとどん兵衛を箱買いしてくれていたので、弟と二人でそれを食べていました。

けど、さすがに飽きてきます。笑

だから、サッポロ一番しょうゆ味に玉子を入れたやつ食べ、のこったスープに白飯をオンしたもの。や、カレーライスのお皿に白飯を大盛りによそって、その上に玉子3個分のスクランブルエッグにマヨネーズと味付けのりをトッピングしたもの。または、トーストの上にスクランブルエッグとマヨネーズをかけたもの。など、得意料理のレパートリーがどんどんと増えていきました。

時々、お寿司や焼肉を食べにつれて行ってくれましたが、基本、弟と二人です。お金をもらった時は、よくふたりで近所の喫茶店でスパゲティーのナポリタンを食べたり、ラーメン屋さんで、ラーメンとチャーハンのセットを食べました。

朝ごはんは、店の小銭を勝手にもって近所のパン屋さんで食料をかって食べていました。朝から、カップヌードルとマイケーキというふわふわしたパンを食べたりしてたのでブクブクと太ってゆきました。

もちろん、誰も起こしてくれないので、目覚し時計をセットして自分で起きていました。そのような、生活を不備に感じた当時、担任だった今村先生は、毎朝、ぼくたち兄弟のためにおにぎりを握ってもってきてくれました。

弟の足の爪を切ってくれたり、耳掃除をしてくれたり、本当にやさしい大好きな先生でした。

けっこう、まじめな性格だったし、子供ながらに「父子家庭を理由に哀れまれたり、バカにされるのは許せん」というプライドがあったので、小学校の制服(大阪市内は公立も制服)野球のユニフォーム、弟の制服など、自分で洗濯してアイロンがけまでやっていました。

環境によって人は変わる、というのはまさに真理で、小学生でしたが自分がやらざるを得ない状況でしたので、家事や炊事はひと通りマスターすることができました。

さわしん
さわしん
人間、やる気になりゃなんでもできるってこっちゃで!

ある日、弟がハサミで足を切った時なんかは、自転車の後ろにのっけて外科までダッシュしたこともありました。

それと、弟が家の中で消化器をぶちまける、という惨事のときは大変でした。家の中があっというまに薄いピンク色をした粉だらけになってしまったので。夜中に酔っぱらって帰ってきた父親にバレると、めちゃくちゃ怒られるかもしれないという恐怖心から、タオルを何十回としぼりながら必死で掃除したこと、を思い出しました。

当時、商店街と市場に隣接した二階建ての店舗住宅に住んでいたので家にお風呂がありませんでした。

だから、夏はスッポンポンになって二層式洗濯機のあらうほうに入いり、弟とベランダで行水ごっこをして遊んでました。スーッとするトニックシャンプーで頭からつま先までを洗って一気に水をかけて爽快感を味わう、という遊びをして楽しんでいました。

また、冬は台所のシンクにのっかって湯沸かし器の温水シャワーを浴びたりしていました。で、時々、銭湯にいく感じです。

中学校生活

そんなこんなで、大正中央中学校に入学して中学校生活がスタート

が、入学初日から問題が発生してしまったのです。ってのも、当時はビーバップハイスクールというマンガの全盛期で、学校には仲間トオルや清水ヒロシみたいなファッションの先輩がたがうようよといました。

で、本来、新入生は入学当初、学校指定の標準タイプの学生服で登校するのがフツーです。が、ぼくにはそのような知識はありません。だから、父親にいわれるがまま、センイシティーといわれる、卸問屋が並ぶショッピングモールで学生服を買ったのです。

お店の中には、裏地が紫色で龍の刺繍がある学ランや、ちょっと太めの通称ドカンといわれる学生ズボンなど、格好いい学生服がたくさん並んでました。その中から、ぼくの気に入ったものを買ってもらいました。いわゆる変形というやつです。

で、当時は肥満児だったので体型をかくすために中ランにドカン、という仲間トオルのファッションで入学式に参加してしまったのです。だから、同級生たちがドン引きしてたことを今でも覚えています。笑

中学校でも野球部に入りました。野球部にもかかわらず、キャプテンは格好いいリーゼント頭だったし、チェッカーズのフミヤみたいな髪型をした先輩もいました。当時は、練習中に水をのむな、という時代だったので、練習はキツかったけど、楽しく過ごしていました。

学校ではウンコ禁止

けど、連日、精神をすり減らす苦痛も味わっていました。その苦痛は何かというと、ウンコをがまんすることです。ウンコは生理現象なので動物なら誰でもするのですが、当時、学校でウンコをすると「やーい、ウンコマン」とイジワルな男子生徒たちのイジメの標的となっていました。

だから、「もし、ウンコに行きたくなったらどうしよう?」なんて不安が一日に何回も頭をよぎり、思考は現実化する、ということばの通り、授業中にもよおしてしまう。ということが、何回もありました。しかし、授業中に手をあげて「先生、ウンコいきたい」なんていったら最後、『ウンコマン澤井』と黒板にデカデカと書かれて嫌がらせがはじまってしまいます。

ですので「あー、授業が終わるまでにあと30分もある。がまんできるかなー」なんて、しょっちゅう冷や汗をかきながら肛門の筋肉に一点集中でギュッとしめてました。で、授業が終わったらダッシュで職員専用のトイレに駆け込む、という日々を過ごしていたんです。

が、一回だけがまんの限界を超えてしまったことがありました。そう、授業中におもらし、をやってしまったのです。

気分が悪くなったら申し訳ないのでくわしくは書きませんが、授業が終わったと同時に、猛ダッシュで家に帰りました。もちろん、パンツから例のものがはみ出さないように学生ズボンの太ももの裏側をギュッと押さえながら。

で、家に風呂がなかったので台所のシンクで臭いが消えるまでゴシゴシと何回も洗いました。そして1時間だけ授業をぬけて、シレーっと教室にもどったのです。「おもらし」がバレてウンコマンとイジメられたらどうしよう?と怖かったのでドキドキしましたが、ぶじに難を逃れることに成功できました。

そんなこんなの中学生ライフでしたが、2年生の秋にまたまた親のシゴトの都合で、西宮市に引っ越して転校することに。

鳴尾南中学校という学校に転校しました。で、その学校ではクラブには入りませんでした。が、お弁当ではなく給食だったのでお昼がラクでした。

それと、以前の中学校とちがってヤンキーと呼ばれる人がまったくのゼロでみんな真面目ちゃんです。だから、住む場所が変わればこうも環境が変わるのか?と衝撃を受けたことを今でも覚えています。

大阪の中学では、授業中に窓ぎわのうしろの席でこっそりとタバコを吸ったり、ポーカーをする人。や、パンチパーマで漫画みたいなソリコミの入ったヤンキーやパツ金のカリフラワーみたいなヘアースタイルでロングスカートをはいたスケ番なんかがいました。が、転校先の中学校は、それはそれは平和でした。

もちろん授業中にウンコも行き放題です。「先生、お腹痛いからトイレ行っていいですか?」と自由にトイレに行く男子生徒がたくさんいたので、ウンコがまんの苦痛から解放され、パラダイスにいるような気分を味わえました。

けど、この中学校の記憶はほとんどありません。ほんと修学旅行や卒業式、体育祭の思いでなんかもゼロです。

ということで高校編です

高校生活

高校は、西宮南高校という公立の高校に入学しました。先輩に山崎邦正さんがおられます。クラブは何に入るのか迷いましたが、坊主頭がイヤだし、身長がまあまあ高いって理由だけでバレーボール部に入りました。

左利きなので、なぜか特別に特訓されてキツかったけど、部員たちとのおしゃべりが楽しすぎてめっちゃオモローでした。

が、夏休み学校でのバレーボールの合宿中に、またまた事件が起こりました。練習中に先生から呼ばれたので、職員室に行ってみると、父親から電話が入っているとのこと。

で、「オイオイ、わざわざ学校に電話ってなんやねん?」と思いながらも電話にでると、一言「おい、しん、家なくなったから、帰るときは〇〇の家に帰ってこいよ」との連絡を受けました。

そう、住む家がなくなったのです。理由は、家賃の滞納で追いだされてしまいました。

リアル家なき子を体験

じつは、離婚後、父親はあれて業績はどんどんと悪化。で、借金もしていたみたいです。まだ小学生だったあるとき電話にでると「お前の親父なぁ、金借りたまま返しよらんねん、はよ返せっていっとけよ、コラァー!」と怖いおじさんに凄まれたこと、がありました。

それからは、電話がかかってくるたびにビクビクするようになり居留守を使うようになりました。ドラマの世界みたいですが、玄関にはり紙をされたり、「家の外で金返せー!」みたいなことを叫びにくるおじさん、もいました。

また、電気やガスが止められて、真っ暗ななか、弟と二人で震えながら朝まで過ごしたこと、も何回もありました。当時、小学生でしたが、ガスが止められた場合は元栓を開けると復活する、ということを知っていたので、金属バットでガンガン叩いて元栓を戻したこと、もあります。

で、ついにどーにもお金の都合がつかなくなったらしくて、しばらくの間、親戚の家に居候させてもらうことになったのです。

そして、指示どうりに親戚の家にいくと、机やベットなどはなくなっていて、ミカン箱二箱がぼくの荷物でした。

小学校の時、野球で入ることができた憧れの甲子園でポケットいっぱいになるまであつめた甲子園の砂、やグローブなど、大切にしていた宝物はすべてなくなり、学校の教科書と洋服だけがミカン箱の中に入ってました。

ミニマリズム万歳。笑

この時に、家やものがなくなっても命さえあれば、なんとかなるさ、ということを学びました。

さわしん
さわしん
ホンマそう、生きてたらなんとかなるで!

その後、まわりの方々の協力で、意外にはやく新しいマンションに住むことができるようになりました。尼崎に引っ越したので高校は遠くなりましたが、二学期からフツーに通学しました。が、バレー部は合宿中に抜けちゃったのでバツが悪く、そのまま退部することにしました。

で、学校が終わったあと、ヒマになったので、父親のシゴトの元わかい衆で通称兄い、とよんでいたジェームスディーンに似たイケメンの兄ちゃんと阪急沿線の某駅で「ぶりうち」をすることに。

ぶりうちのことばの語源は知りませんが、ゲリラ的に駅前にいってベニア板で簡易的なテーブルをつくり、その上にみかんやイチゴなどのくだものをならべて売る。という商売のスタイルのことを「ぶりうち」というんだ、と父親に教わりました。

兄いの趣味で、ラジカセで聖子ちゃんやミポリンの曲を流しながらやっていました。ちょっとヤンキーっぽい女子中学生のファンクラブみたいなものができたりして、そこそこ楽しかったです。が、無許可営業なので、当然おまわりさんに怒られます。

で、何回も怒られているにも関わらず、こりずにお店をだしていると、でっかいバスみたいなのにたくさんのおまさりさんが乗ってやってきて、「これが最終通告だ、次、俺たちがきた時は覚悟しとけよ!」と言われたので、ぶりうちはやめました。

ですが、16歳の時の、このぶりうち経験が、のちのたこ焼きや露天商デビューに生かされてたんだなぁ、とふと思いました。

その後は、居酒屋さんでバイトをはじめました。時給500円のスタートだし、最初の3ヶ月はなぜか店長にイジメられたので苦痛でした。が、意地でもやめてやるか!と根性でねばっていると、だんだんと仲良くなってめちゃくちゃ楽しくなりました。

時効だからカミングアウトしますが、飲みにいったりタバコを吸ったりパチンコをやってみたり、と、やってみたいことはなんでもやってみました。

父親には、ぼくと、当時の親友だった中村くんという友人をよく夜遊びにつれて行ってもらいました。ミナミにある生バンドが演奏しているクラブや、近所のスナックやラウンジ、いろんな場所に行きました。

頭ん中はただのガキんちょ。だけど、体は一丁前にオトナ。夜の大人の世界にどんどんと魅了されてゆきました。最高に楽しかったんですが、フツーの人からするとちょっと異質な日常をすごしてたみたい。

たとえば、朝起きると酔っぱらいの白人男性3人がウチのリビングでくつろいでいたり。知らないおじさんが上半身裸の状態でリビングで寝ている。また、父親が突然、ぼくと同じ歳くらいの女の子3人を家につれてきて相手をさせられたり。

なんてハプニングはしょっちゅうありました。

ですが、1番のインパクトがある思いでは、逆夜這い未遂事件です。当時、16歳の高一でした。ある日の夜、自分の部屋のベットで寝ていると、なにやら異変に気づいて目を覚ましたんです。

ほとんど全裸の泥酔女に犯されそうになった事件

一瞬、夢か?と思いましたが、なんとベロベロに酔っぱらって口からウイスキー臭をはなつパンティ一丁の見知らぬアラサー女が、ぼくの上にまたがってるじゃあーりませんか!しかも、もぞもぞとデリケートゾーンや敏感スポットを同時攻撃されている。

まぁ、健康的な若者だったので、生理的条件反射はおこしてしまいました。が、おもっきり蹴っとばして部屋から追いだしてやりましたよ。

『16歳のころ、自宅で寝ているとパンティ一丁の異性が自分のことを犯そうとしている経験』って、かなりレアだと思いませんか?

さわしん
さわしん
あん時は、まじでビックリしたでー。笑

このように青春時代をエンジョイしていたんですが、ある日バイトの先輩につれて行ってもらった六甲山で衝撃的な光景を目にすることに。深夜にもかかわらず、改造した車がブンブンと爆音をとどろかせ、後輪をズリズリとすべらせながら深夜の六甲山を暴走しまくっているんです。

ギャラリーと呼ばれる、暴走行為をみにきている人、もたくさんいてお祭りみたいでスッゲー世界があるんだな、と興奮したことを覚えています。

で、何回かつれて行ってもらううちに自分でもやってみたい!と、いつしか憧れるように。当時は、まだイニシャルDなんてやってなかった時代でした。

だから、夜遊びやパチンコをするのをやめて、必死で貯金しました。高校3年生の夏休みなんて、朝から夜まで、もーバイトバイトのバイトづけ。ランチタイム、夜の仕込み、夜の営業、フルタイムで働きまくって時給620円でしたが、その月は14万5000円ほど稼ぎました。

そのようながんばりもあり、教習所代の21万円。と、居酒屋の店長さんからTE71という車を売ってもらうための20万円をなんとか貯金することができました。で、18歳になったと同時に免許をとり、免許を取得したその日の夜に、マイカーで六甲山デビューしたのです。

バイトの先輩が乗っている86に必死に食らいついたのですが、ヒールアンドトウ、というシフトダウンをスムーズに行うためのテクニックなんて知らない、免許取りたてのど素人だったので、ヘアピンカーブで派手にスピンしました。

が、心臓バコバコ!生まれてきて人生の中でもっとも興奮した、めちゃくちゃ楽しい夜を過ごすことができました。で、ハマって、どんどんとのめり込むことに。

高校は単位ギリギリまでサボったので、けっこう休んだりしましたが、朝から夕方まで寝るために行く。夕方から23時くらいまでバイト、そのあと、深夜24時くらいから午前3時くらいまで六甲山を走る、というような生活を続けていました。

そして、いよいよ高校卒業が近づいてきましたが、進路はまだ決まってませんでした。が、走り屋(山道をブンブンと暴走する人の通称)をもっと極めたいし、86 という車が欲しかったんです。だから、お金もうけをしたい、と考えていました。

それに、世間体、的には大学に行っといたほうが良さげかな?、なんて気持ちもあったので、とりあえず予備校にでも行こうかな?とも考えていました。

走り屋にお金がかかるし、予備校にもお金がかかる。親にたのむのも無理だからこりゃ自分で稼ぐしかないな、と思いたこ焼き屋をはじめることにしたんです。

当時の父親は、くだものの卸問屋の社員とタクシードライバーとの掛けもち、プラス、時々、駅前にたこ焼きを売りに行く、というような働き方をしていました。

だから、「お父さん、俺にたこ焼き屋をやらしてくれ!」とお願いして高校を卒業するちょっと前に、たこ焼き屋デビューしたんです。

たこ焼きやデビューで18歳のガキがいきなり月収100万円

たこ焼き屋をはじめた、平成元年当初は、コンビニはローソンしかなかったし23時で閉店してしまう。また駅前にあるダイエーも20時に閉店してしまう、という今ほど便利ではない時代でした。

お寿司屋さんや居酒屋さんはありました。が、すき家やCoCo壱など気軽にごはんを食べれるお店がないので20時をまわると、食べ物を手に入れにくい時代でした。だから、まぁーたこ焼きがジャンジャンとぶように売れまくりました。

お店をあけてから、売り切れまで、お客さんがひっきりなしにやってくる。だから、たこ焼き屋デビューしたとたん、時給620円が、日当3万円以上に収入がはねあがったのです。

18歳のガキが、いきなり月収100万超え、当初はバカだったので自分の実力、とカンちがいしていました。が、時代の恩恵を受けさせてもらえるよい経験ができた、と今では思ってます。

さわしん
さわしん
あまりにもカンタンに稼げたので金銭感覚がおかしなってもーたで

当時は一応、芦屋にある予備校にもかよってたんです。けど、まじめに勉強なんてするわけもなく夏過ぎには行かなくなってしまいました。

ですが、六甲山は皆勤賞です。たこ焼きが終わってから毎晩、走りに行ってました。月にガソリン代は10万円、タイヤやブレーキパットなどはしょっちゅう交換していたし、どんどんエスカレートして、座席やアンダーコートといわれるコーティング剤なども剥がしました。

それに、めっちゃ車高が低いのでおまわりさんに見つかったら、完全にロックオンされる、という状態でした。

だから、これも、時効なのでカミングアウトしますが、パトカーの赤いランプがくるっと回った瞬間、反射的にぐわっとアクセルを全開にふみこんで、秒速で逃げた、ってことが何回かあります。誰かを、巻き込んでとんでもない事故、が起きていた可能性もあるので本当に反省しています。

で、そのような悪事を働いていると、神様は空の上からしっかりと見ているんですね。19歳のある夜、六甲山の上で、私服警官に逮捕されちゃったんです。ひとっ走りしてタバコ休憩していると、3人くらいのお兄ちゃんが話しかけてくるなーっと思った瞬間、後ろでにされて地面に押さえつけられ手錠をかけられてしまいました。で、そのまま有馬温泉ちかくの有馬署に連行。

人生初の調書を書くために取り調べを5時間ほど受けて、車はそのまま没収。未成年、ということもあり後日、父親同伴で車を返してもらいに行きました。

ちなみに、運転免許証は無傷。しかも、略式裁判で罰金2万円だけで許してもらえたんです。うっすらとした記憶しかありませんが、めちゃくちゃ反省したし、嘆願書を書いたので軽い罪で許してくれたのだと思います。

この事件を機に、もうキッパリ六甲山を走るのはやめよう、決意したのです。

レーサーを目指すが夢やぶれる

そのかわりに、といっては何ですが、今度からはおまわりさんに怒られずに、堂々とおもいっきり暴走することができるサーキットで走ろう!と。で、そこからさらにのめり込んでゆきました。

岡山県にある中山サーキット、という初心者向けの小さいサーキットで2年ほど修行してから鈴鹿サーキットのレースに参戦しました。N1クラス、というカテゴリーでシビックのEF9に乗ってました。それと、岡山国際サーキットのレースにも参戦しました。


とにかく尋常じゃないほどのお金がかかるので、もーねぇたこ焼きを焼きまくり。で、中山サーキットは草レースだったので、なんかいか優勝できました。が、鈴鹿サーキットではJAF公認のレースにでていたので5位の入賞が最高位。

心の中では、もっといける、という自信はありましたが、2度の横転事故や仲間が死んじゃう痛ましい事故を目撃したり、ミスって事故ると金がかかる、など、経験値がふえるほど、いろんな恐怖を感じるようになっていました。で、27歳の時に、資金がつきてレースを引退したのです。

夢がなくなったので、そこからしばらくは自堕落な生活をすることに。パチスロ→たこ焼き→飲みに行く、というアホみたいな毎日です。

今の嫁ちゃんと知り合ったのもその頃です。で、たぶん付き合った当初から嫁ちゃんは結婚願望があった、と思うのですが、ウチの父親の姿を見ているので、ぼくは付き合って3年、かつ、最低でも同棲を1年くらいしてから結婚を考えよう、という考え方をしていました。

ってのも、ウチの両親はぼくが11歳の時に離婚。で、16歳の頃に、当時27歳の2人目となる、あたらしいお母さんがやってきました。女優の片平なぎささん似のべっぴんさんでした。けど、4年ほどで離婚。

その後、さらに、32歳の頃に、今度は2つ年上の3人目となる34歳のあたらしいお母さんがやってきたのです。まぁ、このような環境でそだってきたので子供のころから、結婚相手は慎重にきめないといけない、と思ってました。

で、本当に3年つきあって、同棲も1年という自分に課したルールをクリアして結婚したのです。

結婚

阪神タイガースが18年ぶりのリーグ優勝をした2004年の元日に入籍しました。そして、よく2005年には長女が誕生。


当時はまだ露天商だったので、その頃から、そろそろ一家の大黒柱として商売に力を入れないとダメだな、と思ってました。それに、年々売り上げが減ってきていたので将来に不安を感じていました。

が、17年間、たこ焼き屋として飯を食ってきた経験があるので、お店かまえることができたら一気に全国チェーン展開できる、というアホみたいな謎の自信があったのです。

このような想い、がありながらも当時はめちゃくちゃバカだったので、具体的な行動をするわけでもなく、「近い将来、お店をもてたらいいなぁ」なんて思いながら天からチャンスが降ってくるのを待っている。というか、ただ惰性で生きている感じでした。

が、ある日、以前から「こんな場所でお店ができたらいいよなぁ」と狙っていたお店が空きテナントになってたんです。5つの道路が合流する角地で真正面にはスーパーがあったので人通りがバツグンにいい場所です。

で、空きテナントのとなりが不動産だったので、速攻で話をききにいくことに。

夢にまでみた、場所で出店できるかもしれないチャンス到来

敷金礼金230万円、家賃が毎月13万5000円だと聞き、借金はなかったけど貯金はほとんどゼロだったので打ちひしがられた気持ちで、その日は帰りました。

でもしかし、どーしてもその場所をあきらめきれなかった。だから、ない頭をひねって「お金を準備する方法を思いつくまで、しばらくお店をキープしてもらえないか?」というアイデアを思いついたんです。そして、次の日、朝イチで不動産屋に足をはこび、当時86歳の不動産屋のじーさんにこのような提案をしたんです。

「ぼくは、どーしてもここでたこ焼き屋さんをやりたいんです。だから、何とかしてお金を準備します。けど、まだしばらくかかりそうなので、1ヶ月だけキープさせてもらえませんか?その代わりに、6万円を空家賃として納めます。そのお金を今もってきました。」

と、虎の子の6万円を不動産屋のじーさんの前にさしだしました。すると、熱意が伝わったみたいで、「この物件の大家さんに交渉してあげるから明日、もう一度きなさい」と言ってもらえたのです。

で、何とかキープしてもらえることになったんですが、1ヶ月以内に敷金礼金の230万円と、内装の工事費や設備投資その他もろもろのお金のあてなんてまったくありませんでした。さーどうしたものか。

貯金ゼロだけど店を持ちたい場合の、最善策とは?

いろいろ考えたんですが、やっぱ銀行融資しか方法はない、と思ったのでそのままの勢いでなんの準備もせず、とりあえず近所にあるメジャーな銀行に話を聞きに行きました。が、門前払いをくらいました。

けど、なんとかしてお金を準備しないと、お店を誰かに取られちゃう!という危機感を感じていたので、片っぱしから銀行に足を運びました。が、ことごとく撃沈。

そりゃ、そうですよねぇ。15年以上、商売はしているけど移動式販売の露天商だし、まともに確定申告もやってない(白色申告でかなりテキトー)ので信用もへったくれもない、どこぞのただの馬の骨かわからん奴になんてお金を貸してくれるわきゃないんです。

はじめはメジャーな大手銀行を狙ってたんです。が、相手にしてもらえないので、グレードを落として小さな信用金庫をいくつかまわった時に、やっとまともに話を聞いてくれる親切な方と出会うことができたんです。

で、現状のぼくではどこに行っても融資を受けられない、という事実をやさしく諭してくれました。そして、どうすれば融資の申し込みができるのか?という、まずは土俵に立つための方法も教えてくれたんです。

しかし、最低、2期分の青色申告が必要となる事実を突きつけられました。青色申告なんてやったことないし、2期分ってことは2年も先だろ?ってことは完全にお店を誰かに取られちゃうよな。とガックリきたんです。が、どーしてもあの場所でお店を出したい、という情熱はさめませんでした。

だから、今度は不動屋さんのじーさんにことの経緯をすべて正直にはなして、キープ期間を先のばしできないか、というお願いをすることにしたんです。下心まるだしですが菓子折りをもって。

「1ヶ月以内にお金を準備する、といいましたができそうにありません。しかも、銀行の融資を受けるためには1年以上かかってしまいます。でも、本気でこの場所でお店をしたいんです。ですから、毎月6万円の空家賃を払うので、もうしばらく、このテナントをキープさせてもらえませんか?」

と真剣にお願いしました。すると不動産屋のじーさんはちょこちょことマメに顔を出していたぼくのことを気に入ってくれていたみたいで、大家さんにお願いしてくれたんです。もちろん答えはOKでした。

その日からは、銀行融資にコミット!最短の融資を目指してモーレツに動きまくりました。

税理士さんと顧問契約したり、生活費と空家賃の6万円、それに融資を受けるさいに自己資金も必要である。という知識を得ていたので必死のパッチで働きました。

で、事業計画書の作成や、面談など、もろもろの手続きをクリアして、ぼくを諭してくれた方の某信用金庫と日本政策金融公庫、両方から合計1000万の融資を受けることに成功したんです。

施工業者さんと、店舗レイアウトの打ち合わせ。内装のクロスや、イートインスペースのテーブルやイス選びの打ち合わせ。厨房器具やこまかい道具の買い付け。専門家にお店の看板のデザインを依頼。格好いいオリジナルユニフォームのデザイン。フロームエーやデイスターなどの求人誌でバイト募集の告知と研修。折込チラシのデザインと発注の依頼。などなど

日に日に、ぼくのイメージした完成形に近づくお店を見ながら、夢実現にむけてワクワクでめちゃくちゃ充実したしあわせな毎日を過ごすことができました。

このように足掛け2年で、やっとこさ念願の場所で自分のお店をオープンさせることができたんです。

オープンセールの3日間の大盛況だけで成功を確信したどアホ

折込チラシの反応が予想以上によく、オープン当日の開店10分ほどまえには、20人以上の人が並んでくれていました。で、3日間のオープニングセールは連日大行列の大盛況でした。

連日、想定の倍以上の売り上げに、「やっぱ、俺が選んだこの場所はまちがってなかった。それに、俺って商売のセンスあるんちゃうの?もしかして、成功確定?」なんて調子にのってしまったんです。

オープンしてしばらくの間は、ウワサを聞きつけた新しいもの好きのお客さんがジャンジャン足を運んでくれます。また、露天商時代からの常連さんもたくさん来てくれました。

で、本当なら、これらのようなお客さま一人ひとりを大切にして、リピートしてもらう施策を打たなきゃならないんです。が、当時はアホだったので「ええ場所でお店をだせたから、お客さんが来てくれるんだ」という考え方をしてたんです。

だから、スタンプカードや子供にはお菓子プレゼント。というサービスを見よう見まねでやってはいたものの、表面部分をマネしただけの他店の受け売り、だったので、なぜスタンプカードを発行しているのか?という本質となる深い部分を理解していませんでした。

そして、最大で8名のスタッフがいたんですが、ある日「お兄ちゃんとこのたこ焼きは大好きだけど、あの子(スタッフ)の時は、愛想が悪いから買うのやめちゃうわ」というクレームをいただいたんです。

ですが、なんか注意するの気がひけるよなぁ、と面倒なことから逃げて、放ったらかしにしてしまったことがあります。

売り上げの管理は、というと税理士さんにまるなげしていたので、少しづつ下がってきているよなぁ、と認識はしていました。が、具体的な数字はハアクしてなかったし、これといった施策、もやってませんでした。

それに、予想以上の融資をうけれたことで運転資金がたくさんのこってました。だから、実力なんてないくせにイッパシの社長きどりで見栄をはって、高級焼肉店で忘年会をしたり、お正月は格好つけてスタッフに寸志をくばったりしてました。

また、『石の上にも三年』ということわざを、まともに信じていたので、三年間なんとかもちこたえたら、自然と常連さんがふえて繁盛店になってゆく、なんて甘っちょろい考え方をしてました。し、さらには、どんなに苦しくてもまじめにさえやっておけば、神様がご褒美をくれるんだ、なんてことも信じていたんです。

まぁ、当時の自分をふりかえると他力本願の大バカ者!イタすぎて悲しくなっちゃいますが、すべて真実をお話ししてます。

経営者がこんな感じだから、お客さんの数や売り上げともに急降下してゆきました。そして、心も荒んでゆきました。

・もしかしたら、この場所が悪いんじゃね?
・価格にシビアな貧乏人が住んでる地域だから客層が悪いんじゃね?
・近隣にライバル店が7店舗もあるからでは?
・夏の暑さが悪い。雨が悪い。
・スタッフの接客態度に問題あるからじゃないの?

自分のことは棚にあげて、売り上げが減少している責任を外になすりつけるクソみたいな思考の男になってしまったのです。

しかも、プールしている運転資金もどんどんと減ってきているし、いよいよこのままでは、潰れてしまうのでは?という危機感を覚えた時に、あるアイデアが思いうかびました。

「たこ焼きの味は、どこにも負けない自信がある。だから、通信販売で全国に売れば爆発できるんじゃね?」と。

失敗してしまった今だからわかるんですが、本来なら、経営状態が苦しいときって、まずは自分のお店の現状をハアクすること。

そして、どこが原因で売り上げが下がってしまったのか?という売り上げダウンの元となっている部分をさぐって改善してみる。または、支出を減らす努力をする。もしくは、今あるリソースを使って売り上げをアップできるアイデアはないか?

など、すでに手の中にあるアイテムを使って改善策を考えるのが、傷口を最小におさえるための最善策なんです。

が、当時のぼくを含む、おおくの経営者は、状態が苦しいときって「一発でドカン!と逆転できる起死回生の打ち上げ花火」を探し求めてしまうんです。

だから、ぼくは、最短でのV字回復をめざすべくネット販売大手の楽天市場と契約しました。

ネットの知識なんてまったくなかったけど、「味には自信があるから、そこらへんの冷凍たこ焼きに負けるわけがない。だからこれで大丈夫だ。全国からお客さんがジャンジャンと押しよせてくるぞ!」なんて、またまた甘っちょろい期待をしていたんです。

が、想像以上に大変でした。まずは、商品開発。たこ焼きを冷ましてから冷凍してチンして食べたんですが、味が最悪なんです。どうしてかというと、焼きたての場合は、外側がカリッとして、中はトロトロのジューシーなのですが、冷めてくるにつれどんどんと団子のようにかたくなってしまうんです。

だから、冷凍後レンジで再加熱するとアツくはなるんですが、団子状態のままなのでめっちゃ不味いんです。で、悩んだすえ、できてる人からパクればいいんだ。というアイデアを思いついたので、楽天市場で冷凍たこ焼きのランキングが1位のお店につくり方を盗みに行きました。

すると、答えを一発で見つけることができたんです。なんと、焼きたて熱々のたこ焼きをジャンジャンと急速冷凍できる「急速冷凍庫」に入れていたのです。

なるほど!焼きたてアツアツの状態を急速冷凍するから、カリトロの食感をたもてるんだな。ってことで、その日のうちに業者に電話して設備投資することに。けど、運転資金がほとんど底をついていたのでリース契約することにしました。

で、そのままレンジでチンできる専用の容器を探したり、真空パック用のビニールを探したり、おいしく食べるためのレシピを作ったり、いろいろ試行錯誤することで、なんとか80点くらいに仕上げることがでました。よーっし準備はととのった。

インターネットはレバレッジが効くが魔法の集客ボックスではない

が、楽天市場でたこ焼きがまったく売れません。当時、インターネットは魔法の集客ボックスで、楽天市場に出店すればバンバン売れる、と思っていたんです。が、そうは問屋がおろしてくれませんでした。

そして、ECコンサルタントという担当者にこんなことを言われました。「澤井さん。まずは、広告でご新規さまを集めませんか?味には自信があるんでしょ?ってことは一度、購入いただけたらリピーターになってもらえますよね。そう考えると広告費なんて、すぐにペイできると思いません?」ぼくはそのことばを素直に受けいれて広告を使ってみることに。

すると、じゃんじゃん売り上げはあがるんです。が、驚愕の事実に気づくことになるんです。なんと、そもそも、単価と粗利の低いたこ焼きを冷凍通販すると、めちゃくちゃコストが跳ねあがってほとんど利益がでないとってことに。

『安売り合戦』は頭のわるいバカな経営者がやる手法

しかも、当時はマーケティングの「マ」の字も知らなかったので、ライバル店との安売り合戦に参戦してしまったのです。てか、『安くてうまいものをだすお店がよいお店の絶対条件である』という考え方だったので限界ギリギリに挑戦したんです。

8個入り400円を2パックセット送料込みで1000円!さらに2セットご購入いただくと8個入りをもうワンパックサービス。という売り方をしていました。

「楽天ランキングで1位やん、スッゲー!」と感じるかもしれませんが、広告をだすタイミングをちょっと調整すればカンタンに獲れるんです。で、「楽天ランキングで1位のお店ですよー、だから、売れまくってまっせ〜!」なんて演出をしてたんですが、内情は火の車でした。

たこ焼き8個の原価は専用のトレーや真空パックできるビニールをつかうので180円くらいかかります。さらに梱包用のダンボール50円ほど、さらにさらにクール便の送料が平均580円ほどかかっていたので、ほとんど利益がない状態でした。

だから、1000円のセットに、お好み焼きや焼きそばを同梱購入してもらえないと完全に赤字。どうしてかというと、受注生産でしたので広告をいれると売り上げはあがるんです。しかし、お店の営業も同時にやっているので、通販の受注分は徹夜で焼かないと追っつかない、ってことがしょっちゅうありました。

ってことは、当然スタッフの助けもいるので深夜料金の人件費もかかっていたのです。で、本来ならチャレンジして儲からないよな、と分かった時点でやめる。という選択肢もあったはずです。だって、冷凍たこ焼きの通販って単価が安くてコストも労力もかかるので、そもそも儲からないビジネスですから。

ビジネスは売り上げではなく利益アップにコミットすることが重要

それに、商売って儲けてナンボの世界でしょ?だから、利益アップが最優先事項なはず。であるにもかかわらず、そのような基本的なことすら考えてなかったので、売り上げアップにコミットしてしまったのです。

たとえば、売り上げが3000万円で利益が500万円のこるビジネスモデルよりも、売り上げが1200万円で利益が1000万円のこるビジネスモデルの方が、労力が少なくてすむしはるかに効果的でしょ?

ですが、当時は、とにかく売り上げの数字をふやせば儲かって楽になる、とマジで思ってました。だから、ただでさえシンドイのに横展開したのです。楽天市場以外にもビッダーズ、Amazon、ヤマダモールと販売網をふやしました。

売上金をかすめ取るハイエナ業者の金ズルを経験

そして、ネット上にお店情報が露出されたことによってハイエナ業者からの営業攻撃を受けまくったのです。

リクルートやGMOなどの大企業。ホームページの制作会社。地方のスポーツ新聞社。B級芸能人との対談を記事にする、という聞いたこともない雑誌社。東京のローカルラジオ番組。地方のローカルテレビ。その他もろもろいろんな業者から営業されまくりました。

で、ぼくはアホだったのでホイホイと口車にのせられて、いろんなサービスに投資しました。自社サイトを作るのに110万円。SEO対策に25万円。雑誌の取材に7万円。九州地方のスポーツ新聞の広告に5万円。などなど、「売り上げアップ」を信じてじゃんじゃん投資したんです。

けど、全然ラクにはなりませんでした。

どうしてかというと、経験した今だからわかるんですが、どれも費用対効果がわるい、というか、そもそも見込み客にアプローチできていない集客ごっこをしていただけでしたので。

当時は、いろんな施策をがんばっているつもりでしたが、ハイエナ業者のカモにされる気前のよい金ヅルだったのです。だから、広告費などの投資額が、ますますふえてお金がさらに苦しくなってゆきました。

仕入れ代に店の家賃に固定費に人件費、水道光熱費、住居の家賃に生活費、銀行と日本政策金融公庫の借金、軽い気持ちで借りた助成金の返済、いろんなもののリース代金、税理士の顧問料、国民健康保険料に各種税金。

ひと皿うって利益が160円ほどのたこ焼きを売りまくって、これら支払いのお金をかき集めなければなりませんでした。

だから、今度は唯一のこった自分の労働力をほうしすることに。朝から夕方まではお店にでて、夕方からはスタッフにお店をまかせ、ぼくは軽トラックにたこ焼きの道具をつんで深夜まで駅前でたこ焼きをうる、という露天商を復活させたのです。

家族のためにシゴトをしてるのに、一生懸命がんばるほど関係がわるくなる、という矛盾

朝から深夜まで毎日お仕事、ですから家族とのコミュニケーションも取れません。ってことは、当然、関係もどんどんと悪化して嫁ちゃんと口をきけばケンカする、という最悪の状態になってしまったのです。

さらに悪いことはどんどんと続くもので、ついに自転車操業でお金がギリギリ限界のパンク寸前。店を維持することでいっぱいいっぱいで住居の家賃や生活費のお金が捻出できなくなってしまったのです。

そして、今月いっぱいで、マンションを引き払わなければならない状況になっていることを、はじめて嫁ちゃんに相談したのです。まぁ、想像していただいたとおりのリアクションが返ってきました。

嫁ちゃんの両親に土下座

で、情けないですが、嫁ちゃんと子供たちをしばらく住ませてもらえるように、嫁の実家に頭を下げてお願いしたのです。そして、ぼくは自分の実家に転がり込んで家族バラバラの別居生活がはじまりました。

「こんなはずじゃなかったのに。俺なにやってんだろ」もうねぇ、ぼくが反面教師にしていた父親とおなじような人生を歩んでいることが、悔しくてたまりませんでした。しかも、そんな親父に甘えちゃっている自分がいる。

精神的にも肉体的にも追いつめられていたし、毎日、胃がキリキリしておなかの調子もわるかったので、ストレスでとんでもない病にかかってしまっているのではないか?とビクビクしていました。また、「まっ黒な便がでたらどうしよう?」と、変な妄想をしてしまいトイレで便を確認するのも怖かったです。

けど、なんとしてでも復活してやる。という思いがありました。そして、この頃から、たこ焼きを売る、というビジネスではこの状態を回避できないのでは?なんてことを考えるようになっていたんです。

トンネルの出口を見つけたキッカケは『ヒルズ族』ということばとの出会い

で、いろいろと調べているうちに当時はやっていた『ヒルズ族』ということばを知ることに。

俺なんて、汗だくのボロボロになるまで働いているのにこの有り様。なのに涼しいところでパソコンをポチポチするだけで、高層マンションに住んでスーパーカーにのって美女をはべらすことができるのか?なんちゅー世界なんだ、マジなのか?と衝撃をうけました。

ほんとラクに稼げる魔法みたいな方法があるんじゃないの?と、めちゃくちゃ興奮しました。そして本当かどうかをたしかめるために、ヒルズ族の兄ちゃんがやるセミナーを東京までうけに行くことにしたのです。

お金がなかったので、カードのリボ払いでセミナー代と夜行バス料金を支払いました。アメブロをつかってアフィリエイトをする方法を教えてくれるセミナーでした。が、マインドセットということばや、読書してスキルを磨いてゆくことの大切さなど、今のぼくの人格や価値観をつくるためのキッカケを与えてくれたセミナーとなったので、そのセミナー講師さんにめちゃくちゃ感謝しています。

Amazonの中古で、スティーブン・コービーさんの『7つの習慣』、神田昌典さんの『非常識な成功法則』、ロバートキヨサキさんの『金持ち父さん貧乏父さん』、など、セミナーで教わった本を買って小学生の夏休みの課題以来となる読書をはじめました。

すると、パラダイムシフト、ダイレクトレスポンスマーケティング、収入を得るには4つのステージがあること、など、いろんな学びや世界があることを知り、自分がいかに小さな枠の中だけで生きてきたんだ、と目からウロコでした。

本からあたらしい知識をいれることで、これまでの価値観がくずれ、あたらしい価値観がインストールされ、自身がどんどんと生まれ変わって成長してゆくことに快感をおぼえ、ジェイエイブラハムさん、ダンSケネディさん、ナポレオンヒルさん、斎藤一人さん、など、たくさんの本を読みまくりました。

で、さらには、こりゃまたリボ払いで数十万円する高額塾に入ったりもしました。

21時間労働で3時間睡眠という超ブラックな労働条件を体験

別居当時の生活パターンはというと、5時に起床して8時まで、メルマガやブログを書いたり読書をする。そして9時ごろにお店に行って仕込みをして10時にお店をオープン。で、18時から深夜25時まで露天商。で26時ごろに就寝。というけっこうハードな生活をしていました。

が、高額塾の同期の人たちもがんばっているので、続けることができました。し、コピーライティングやマーケティングのスキルを磨けば、食いっぱぐれることはないってことに気がつくことができたので、インプットとアウトプットをくりかえしました。

そうすることで、アフィリエイト報酬やライター報酬、セミナー報酬、コンテンツ販売報酬、コンサルティング報酬など、たこ焼きとはまったく別の、スキルを使って稼ぐ技術を手に入れることができるようになってきたんです。

当時はめっちゃしんどかったんですが、暗闇の出口が見えている感じがしたので、充実した毎日を過ごしていました。で、地元尼崎の商工会議所であった速読のセミナーに参加したときに、運命的な出会いがあったんです。

速読のセミナーの後、ちょっとした懇親会があったんですが、その隣にすわった方は、たまたま弁護士さんでした。で、ビールやお酒がタダで飲めるってことでガブガブと呑みながら話していると、なぜか人生相談に。そして、ぼくの現状を打ち明けたんです。

お店のこと、借金のこと、家族のこと、別居してること、生い立ち、これからどうやって巻き返せばいいのか悩んでいること。相手がおなじ歳くらいの弁護士さんである、ってこととお酒がまわっていた、ってことで洗いざらいぶちまけました。

すると、親身になってきいてくれて「今後のことを真剣に考えよう」とお酒を飲んでない別のせきで話をすることに。

で、ここまでパンパンなら一度リセットするのもありだよ。というアドバイスをもらい自己破産を決意したのです。

けど、自己破産するにも数十万円とけっこうな費用がかかりますよね。その費用はどうしたのか?というと、ラッキーなまとまったお金を手にすることができたんです。

過払金のもどったお金で自己破産費用を相殺

じつは、20代前半の頃、レース資金の足しにするために消費者金融4件ほどから借金をしていた時期があったんです。その借金は完済していたんですが、過払金請求すると、なんと100万円以上も戻ってきたんです。だから弁護士報酬、破産の費用をはらっても十分なおつりがありました。

そして、お店を手放すことになったんですが、のこったお金でマンション契約をし、また家族と住むことができるようになったんです。

その後は、生活のためになんでもやりましたよ。つなぎのために露天商もやったし、40歳をまわってから2年ほどサラリーマンも経験しました。ライター、コンサル、アフィリ、コンテンツ販売などスキルと使った仕事や、世話になった実家に居酒屋のマーケティングのお手伝いなんかもやってます。

自己破産については、くわしく書いた記事があるのでここでは話しませんが、破産後8年たった今は、あたらしい家族も一人ふえ感謝した気持ちで毎日しあわせにすごせています。し、自分名義のクレジットカードだって持ててるし、なにより借金がないのでストレスフリーです。

ここまで、めちゃくちゃ長いぼくのプロフィールを読んでくれてどう感じましたか?

「不幸じまんしてんじゃねぇよ!」とか「自己破産した身分のおまえがえらそうなこと抜かすんじゃねー!」とか思った?

それとも、「いろんな経験談がきけてオモローやったで!」とか、ぼくの生い立ちと比較することで、ほんの少しでもやる気や勇気や希望なんかが湧いてきた?

もし、ちょっとでも元気になってくれたのなら、このプロフィールに価値があった、ってことになるのでめちゃくちゃうれしいです。

本当にここまで読んでくれてありがとう。あとちょっとで終わるのでもう少しだけお付き合いください。

なんで、ぼくの生い立ちをここまで赤裸々にカミングアウトしたのか?というと、ぼくのことに興味をもってプロフィールを読んでくれたあなたに信用して欲しかったからです。

ネットをビジネスに使っている多くの方は、プロフィールを書いておられます。が、学歴や資格をただ、だーっとならべたものや、普段つかうことのない歯の浮くような格好いいことばをつらつらと書きならべたもの、がほとんどですよね。

だから、イマイチ信ぴょう性にかけるし、人となりや人間味が感じられへんよな。と、ぼく自身が感じているからこそ、澤井という人間を知ってもらうためにここまで長い文章を書いたのです。

ちょっとだけ実績をじまんさせてもらいますが、たこ焼き屋さん時代の25年間で、およそ70万人のお客さまと接し、腕いっぽんで4億円弱ほど売り上げをあげました。

が、最終的に自己破産してしまいました。

どうしてかというと、正しくない知識で正しくないやり方をしていたから。って、ことと

もう一点、めちゃくちゃ重要な理由があって、

稼ぎにくいビジネスに執着してしまったからです。

たこ焼き屋を25年、通販を4年、スキルを使ったネットビジネスを8年、これまでにいろんなビジネス経験をしました。

で、それらの経験があったからこそ『今の時代はとてつもないスピードでいろんなものが形を変えて進化してゆくんだ』という事実をしみじみと実感しています。

だから、将来的に商売を繁栄させてゆくためには、どういったビジネスを選ぶのか?ってことも大切ですが、自身が変化に順応してゆくことが、とても重要です。

ダーウィンさんの名言で、

もっとも強いものが生き残るのではなく、
もっとも賢いものが生き残るでもない。

唯一、生き残ることができるのは、
変化できるものである。

という教えがありますが、これは真理をついています。

市場や商店街がシャッター街になったのは、スーパーやコンビニができたから。で、商売人の仕事をうばった張本人であるスーパーやコンビニのレジも無人化へと進化しています。

自動車も自動運転になり、誰もで変えが効くような仕事は人工知能のAIにどんどんんと仕事を奪われていくことでしょう。

ぼく自身も、平成元年当時の、時代の恩恵を受けれていた過去の栄光にこだわって変化しなかったので自己破産してしまいました。

そして、今まさに、8年前のぼくとおなじような境遇で苦しみ将来に不安を感じている経営者さんがたくさんおられると思うんです。

で、自身がめちゃくちゃ失敗しまくってつらい時期をのりこえた経験があるからこそ、失敗しない方法がわかります。

し、ぐちゃぐちゃに苦しんでいる経営者さんの心の声も察することができるんです。

だからこそ、力になりたい、というおもいが人一倍つよいんです。

このような想いがあるから、ぼく自身の体験談や経験することでえた知恵をつつみ隠さずすべてお伝えしているのです。

最後に、

さわしん
さわしん
小学校5年生のクリスマスの夜に母親がでていった日から、ぼくの人生は一変しました。

で、いろんな経験をしましたが、

どのような環境で育とうが、どのような失敗をしようが何度でもやり直しができます。

そして、

自分の人生は自分でしか切り開くことができないんだ。

というぼく自身がこれまでの人生で得た教訓をお伝えして終わりにしたいと思います。

本当のほんとうに最後まで読んでくれてありがとう。

共にがんばろうなー!

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